Rune(ルネ)
2.14生まれ / みずがめ座 / O型
本気のばいおぐらふぃ書くから、覚悟して見てくれ。
音楽のことだけ知りたい方は、ディスコグラフィーやWORKSを御覧ください。
父の転勤で2歳〜5歳くらいまで、東京の社宅に住む。
2歳、ピアノをはじめ(させられ)る。
歌うと口の下が梅干しのようになる「梅干し先生」の下、エレクトーンやピアノを習う。おかげで絶対音感がついたっぽいが、そんなに今は役立っている感じもない。
とにかく英才教育をさせたかった母によって、売れっ子アイドルのようなスケジュールで習い事(IQを高める塾(謎)、普通の塾、英語etc...)をさせられるが、こちらも今役に立った感じもさほど感じない(残念)。
この時、お受験のために通っていた桐杏学園という塾がまた泣くくらい行きたくなかった(ひたすら能力以上のことをしていた気がする)んだが、この塾のおかげで今の私のベースが作られた気がしている。
小学校受験を試みて合格するが、父親の転勤によって北海道に戻ることとなり、意味をなさなくなる(おーーい!)笑
どうでもいいが、私が人生で一番モテたのは、この幼稚園の時代だった気がする爆
札幌の日新小学校に通う。
皆いい子だった記憶と、朝顔育てた記憶。
(この時住んでいたマンションの部屋でめちゃめちゃ心霊写真が撮れた。)
ここで、母の病気が発覚。この後長い闘病生活が始まる。
度々父親の転勤によって、小学2年で創成小学校(現・資生館小学校)に転校。
転校生ということもあってか、若干嫌がらせ?もあったりして、しばらくお昼食べて帰る生活。ストレスからか、保健室でお漏らししてしまったことがあったらしく、母親はそんな私を見て泣いたらしい。本人、全然覚えていない。笑
そのうち、クラスにも慣れて、なんの変哲もない1クラス14人の完全にドーナツ化現象な小学校生活を送る。
今から考えたら、結構担任の先生の癖も強かったんだが、この先生によって、ものの考え方を学ぶ。
運動会のダンスは誰よりもうまかったはず。笑
小学校で自慢できることはそれくらいしかねぇ。
小学4年ころから、中学校受験に向けて、英才教育再開。
能力開発センターに通って、受験に備える。
と同時に家にパソコンがやってくる。ここから引きこもり人生開始。
何もしないとかなりアフォなんで、そこまで偏差値の高い学校を受けたわけではないが、塾に通ってよかったと思う。
無事に志望校も滑り止めも受かって、土日が両方休みだった学校に決める。(楽しがち)
こんなに英才教育受けてきたのに、定期テスト対策というものができず、中学校1年では赤点ばかり。40点台とかザラ。母、涙。笑
中学2年からは、どうにかしないとやばいと思いはじめ、勉強をし始める。
勉強のコツを掴んでからは、全教科平均89点くらい取れるように(やったぜ、いええええええい!)。足をひっぱっていたのはもっぱら英数。笑
引きこもり過ぎて心配していた母親が、札幌の養成所のオーディションに応募する。(すごい悩んで締切日に、わざわざ養成所に願書を持っていったらしい。すごい執念。)
小学校時代に母親に歌を聞かせた時に「下手くそね」と言われてトラウマになってしまったので、オーディションに受かったが歌う気にもなれず、ひたすら大好きなダンスを頑張って、有名な人のバックダンサーになろうと気持ちを切り替える。
しかし、オーディションで準グランプリをいただいたため、歌も頑張らなければならない状況になる。
周りのみんな可愛いし、細いし、歌もうまいし、コンプレックスだらけで、毎回レッスンに行く時は胃が痛かったが、なんとか頑張っていた。
夏休みに髪の毛染めて「Runeさんが髪染めるなんて思わなかった」と家庭科の先生をひどく落胆させる。(何の話)
ピアスは母親にも勧められたが、信念があったので開けていない。
ここらへんで、ピアノはやめる。
やめる頃には毎週、腱鞘炎を理由に休んでいた。
中学3年の終わりに、オーディション番組に出て芸能活動NGの学校に怒られる。笑
でも、オーディション最後まで残って全国区のテレビ出ちゃう。余計怒られる、反省文書く...。
でも、街で「●●に出てる●●さんですよね?」ってお声かけてもらえるのはなんとも恥ずかしいけれど、嬉しいことでした。ここらへんの日々は最高に楽しかった。
芸能活動以外は素行が良かったので(笑)、高校に推薦をいただけて、無事高校生に。
土日を待つような、超絶暇な日々。
相変わらず、養成所のイベントなどはやっていたが、同じく頑張っていた子たちがデビューしたり、一緒にオーディション番組の最終に残った子がデビューしたりして、どんどん仲間が少なくなり、あまり楽しくなく感じていた。
ありがたいことに、オーディションのおかげで事務所には所属しており、たまに関西にも行かせてもらっていたが、学校が芸能NGということもあり、挨拶が主で、芸能の仕事はなかった。
体育祭の卓球で、1番になる。
ダブルスの相棒のトリさんとのコンビネーションがサイコーすぎた。
英語苦手なのに、高校1年の暮れにニュージーランドに1ヶ月間の語学留学をする。
まじで辛すぎて、近所のマーケットで買ったマカダミアナッツクッキーが生きる拠り所だったのに、ホームステイ先の巨大なワンコにクッキー全部食べられて絶望する。
末っ子のエディに毎日おんぶをせがまれたり、長女にお前の着てるパーカーをくれと言われたり、常に疲弊する留学だったけど、今から考えたら良い思い出。
帰国時にも色々あって、書きたいんだが、それを書くと社会情勢がからみ、歳がバレるので、書かないでおく笑
このころはもう「デビューできるよ!」と何度も言われながら、ずっと具体的な話が出てこないことが何度も繰り返されたため、大人を信用しなくなる。養成所をやめる。事務所には所属するが、仕事はしていない。
そんな、日々を送っていたが、ある日事務所の人から「作曲やってみたら」と言われて作り始める。ここがシンガーソングライターの起点。
同時に「ベースもやってみたら」と言われて、ベースの教則本が送られてきたのでやってみた、けど、1ヶ月くらいで辞めてしまった。
高校3年の時に、韓国に2週間の交換留学に。
オーディション番組で韓国の子と一緒だったので、そこから韓国に興味をもちはじめていた。夏だったが、ホームステイ先には冷房がなく、なかなか過酷な2週間だった。でもこの時は、私のクッキーを奪うワンコもいなかったし、すごく楽しかった。(根に持つタイプ)
そういえば、高校2年生くらいの文化祭で、友達3人のグループの振り付けをプロデュースしたのがすごい楽しかった。
いい意味でも、悪い意味でも何事もなく平穏な高校生活でした。
あ、引きこもりは変わらず、高校から帰ってきたら、高校でしゃべってた親友と家でもMSNのメッセンジャーでチャットして、ずーっとしゃべってた。なまら楽しかった。笑
高校でも素行はよかったので(ぷっ)、推薦を頂いて大学へ。
大学は東京。
門限が21:50の学寮に入る。(絶望)
外泊をするには、予め登録したお家にしか泊まれなく、前日までに外泊届けを出す必要がある。
大学に通い始めて1週間くらいで、友人が学寮のポストに入っていた「今、入れば1万円プレゼント」のマクドナルドのバイト募集のチラシを持ってきて、一緒に入ろうと言われたので、渋々面接を受けに行く。
髪の毛黒くしたら採用するよ(まっきんきんだった)、と言われ、正直そこまでして入りたいとは思わなかったんだが、友達のこともあり、渋々、黒くして入店。時給850円からスタート!
この時点で、マネージャーや店長の印象は最悪だったらしい。笑
しかし、その後、めっちゃ「使えるやつ(シフト的にも仕事的にも)」になって、2年で店長代理までになる。
ちょうど24時間営業が始まったころで、昼夜問わず、働いていた。
廃棄になるアップルパイを食べるのが深夜のお楽しみで、この頃の体重は人生で最も重くなる。(未だにこの体重に到達できないw)
大学にもちゃんと通っていた。
だから睡眠はほぼゼロ。笑
でもお金も、勉学も、両立して満足だった。
そんな私だったが、当時の事務所が即興芝居を主催するってんで、私も参加することにしてみた。お芝居は未知の世界だったけど、とりあえず何でもやってみたかった。
金曜日の夕方から道玄坂で稽古なんだが、最初はすごく楽しくやっていた。
でも、どんどん参加する人(皆お芝居が上手な先輩がた)が増えて行って、すごい人達を前に、私はどんどん成長できなくなっていった。
はい、おちこぼれーーーー!笑
だから未だに芝居には自信がない。
でもこの頃、ショートドラマや映画に使ってくださった方々には本当に感謝。
あ、でも稽古後の打ち上げがすごく楽しかった。笑
めちゃめちゃ飲みすぎて翌日の英語のクラスで友人に「酒くさっ」って言われることもしばしば。てへ。
この時、ボイトレにも通いはじめていた。
中学時代にでたオーディション番組でお世話になった方(黒ずくめののっぽさん)が、紹介してくれたボイトレスタジオだった。
この黒ずくめののっぽさんは、未だにお世話になっている。
そして、この頃通っていたボイトレスタジオは、今の事務所である。